教育先進国アメリカの教育指導法「ドルトン・プラン」とは
最近日本で少しずつ注目を浴び始めている教育メソッド「The Dalton Plan(ドルトン・プラン)」。
ドルトン・プランとは、1908年にアメリカのマサチューセッツ州で Helen Parkhurst(ヘレン・パーカースト)女史が提案した教育指導法。型に嵌った教科書通りの指導法に疑問を感じたパーカースト女史が、当時の学校教育の弊害に対する試みとして、モンテッソーリ教育の基盤である“自発性”と“自主性”を重んじる着想や、アメリカの哲学者ジョン・デューイの“問題解決学習”などのメリットを活かして考案したもの。
一人一人の能力や要求に応じて学習課題と場所を選び、自主的に学習を進めることができる教育指導法を提唱し、モンテッソーリ教育の生みの親であるマリア・モンテッソーリの協力を得ながら、一つの教室で実験的にこの教育法を確立していく。イギリスの名門校Bedales Schoolを始めとしたヨーロッパの革新的な学校をいくつか訪問した後、パーカースト女史の教育法が1916年にマサチューセッツ州ドルトンにある高校で採用されたことから、その地名の名を取り「Dalton Laboratory Plan(ドルトン ラボラトリー プラン)」として実践。そして、ここでの実績とその効果の高さからこの画期的な教育指導法は世に広く知られるようになる。
1919年になると、パーカースト女史はニューヨークに移り「THE DALTON SCHOOL」と名付けた学校をセントラルパーク近くに創設し、このプランを実践する場を自ら築き上げる。その実績から数多くの生徒が集まり、すぐさま手狭となった学校は、より大きな敷地を求めて近くの場所へ学校を移設することになるほどの人気ぶり。さらに1929年の秋には高等学校を開校し、幼児から高校生までを対象とした一貫教育校として、数多くの人材を世に送り出すこととなる。そして、そんな100年の歴史を誇るTHE DALTON SCHOOLは、今なお著名な名門私立学校として全米にその名を轟かせている。
英才教育「ドルトン・プラン」の内容とは
「自由」と「協同」という2つの原理に基づいて構築されたドルトン・プランは、「ハウス」・「アサインメント」・「ラボラトリー」の3つを柱に、一人一人の個性に合わせて各々の能力を最大限に引き出すことを目的とする。
パーカースト女史は「学校の真の使命は生徒を鋳型にはめることではなく、自分の考えを持てるよう自由な環境を整えてやり、学習する上で生じる問題に立ち向かう力をつけてあげること。」と述べており、それを実現するために一番最初のプログラムとして一番幼い年代の子供達に「自ら考え選択する力」・「興味・関心を高める力」・「集中力と持続力の構築」の3つの力を養うことを重要視している。それにより、学年が上がっても、その課程を自身の糧としてしっかりと吸収できる下地となり、自己成長に繋がっていくと考えているからだ。
そして、それを育むために考案された「アサインメント」。これは自主性や計画性を養うために生徒と先生が交わす約束(契約)のこと。それぞれの年齢に応じた課題が与えられ、子どもたちは期限までに約束を守る責任が課せられる。それと同時に時間の有効な使い方や、「何を」・「いつまでに」・「どの程度」進めるかという計画性を学ぶ。
それを実行に移す場所と時間を「ラボラトリー」と呼び、生徒が立てた学習計画を自身または少人数のグループで究めていく。自分が興味を持った分野について深く学んだり、授業でわからない箇所を補ったり、様々な場面でこの場所と時間を自由に使い、自己成長を図る。
通常のカリキュラムや21世紀に必須とされるSTEM教育、Science(科学)・Technology(技術)・Engineering(工学)・Mathematics(数学)などの学問的な領域はもちろんのこと、歴史学・語学・音楽・美術・体育など、様々な経験を通して、自身の好きなことや得意な分野を見出し、その才能を伸ばしていける環境を整えることをとても大切にしている。そのため一流の学校に進学し、医師や弁護士などのスペシャリストを目指すだけにとどまらず、芸術や音楽、スポーツなどあらゆる分野に精通した人材となれる教育方針を取っているのが、このドルトン・プランが世界トップクラスの英才教育と呼ばれる所以なのだろう。
また、詰め込み式の教育とは違い、学びは知識だけでなく、様々な人との交流を通じて、社会性と協調性を身につける「協同」の原理も非常に重要視されている。そのため、学校を人と共に生きる社会を学ぶコミュニティーとし、「ハウス」と呼ばれる他クラスや他学年などで構成されるコミュニティを作成するなど、様々な集団と積極的に交流する機会を設け、多様な価値観・社会性・協調性を身に付けられるような工夫が各所に散りばめられている。
世界への広まりと日本での広まり
こうして人気を博したドルトン・プランは徐々に世界各国に広まりを見せる。
ドルトン・プランを採用した学校はイギリス、オーストラリア、オーストリア、オランダ、ベルギー、チェコ、チリ、韓国、そして日本にも登場する。
日本におけるドルトン・プランは、意外にも1922年、大正自由教育運動の末期に成城小学校ですでに導入されていた。しかし昭和時代になり、生徒自身が学習計画を立てて勉学に励むこのドルトン・プランを教師の手抜きと呼ぶ声が大きくなり、生徒の学力低下を招く原因や進学に不利などの批判から日本の教育の表舞台から排除されてしまう。そして、それ以降は進学に備えた勉学を教科書通り教え込む、言わば詰め込み式教育時代が訪れ、奇しくもパーカースト女史が最初に疑問を感じた教育指導法に戻ってしまうこととなる。
同じく海軍兵学校でもドルトン・プランが採用されていた頃もあったが、必修科目が非常に多かった時間割の関係上、生徒たちが自由に議論したり、好きな勉強をするのに必要な自由時間が不足していたため、こちらも短い期間で終焉を迎えてしまう。特に軍隊においては大学のように自主探求・自主創造を通じて新しい仕組みや原理を発明したりする能力を求めておらず、あくまで軍隊という組織を動かすための動員として育てることを目的とされていたことも大きいと言える。しかし、当時ドルトン・プランを導入した永野修身氏の校長時代の校風を絶賛する声が大きかったのは事実で、その当時の教育を受けた者の中には新たな爆撃術の研究開発を行った関衛など数々の有能な人材も排出している。各人の創造性や専門性を開花させ、新しい戦術や戦法を生み出そうとした柔軟な発想の教育改革は海軍兵学校の歴史の中でも驚異的なまでに革新的で、極めて珍しい事例でもある。しかし、他律的な型嵌め教育を受けていないため、他の士官や上官からは「理屈っぽく、意見が多い」と非常に評判が悪く、年功序列・権威主義が優先される軍の組織の中で煙たい存在として扱われてしまい、永野校長が軍司令部次長に転じた後にドルトン・プランも消滅することとなる。
それから年月が経ち、1970年に河合塾が幼児や児童を対象とした知能開発教室「英才教育研究所」を設立すると、1976年にニューヨークのドルトンスクールと提携を結び、ドルトン・プランが日本で再度復活することとなる。その後は河合塾学園ドルトンスクールと改名し、1982年には2歳児、1991年には1歳児を対象とした“幼児英才教育”が行われる。そして2019年4月から、この教育メソッドを取り入れた中高一貫校「ドルトン東京学園」を東京都調布市で新たに開校する。
今、必要な教育とは何か
AI革命やグローバル化が進む今、世の中が大きく変化していく時代。これからの時代を生きる子どもたちは、今の大人がこれまで経験したことのない状況の中で生きていくことになることが予想される。
これまでの時代は、知識を詰め込むことで受験に合格し、難関大学を卒業し、大企業に就職することで一生面倒を見てもらえる安泰な時代だった。しかし、これまでの時代では考えられなかったような大企業が倒産したり買収されたり、もはやどこで勤めていても生涯安泰と言える時代はなくなった。この先の不透明な時代を生きるにあたって、知識一辺倒では乗り越えられず、そのときの状況に応じて臨機応変に考える力が不可欠になる。その力を伸ばすには、子ども一人ひとりと向き合う教育が望ましいとされており、同時に、多様性を理解し、協働する人材を育成することが不可欠と言える。そういう意味でも「自由」と「協働」を核とするドルトン・プランは、これからの時代を生きる人を育てるに相応しい教育法の一つとなるだろう。